― 神が住む島・探訪記 ―
守田正明

 平成十七年五月二十六日、私は拳誠会の役員三名(中曽知昭・土井利之・智羽清文)と会創立三十三周年記念旅行と銘打ち、新庄村のがいせん桜の報道でも知られるように、今年は明治三十八年の日露戦争に於いて、東郷平八郎率いる日本の連合艦隊が世界最強と云われたバルチック艦隊と戦火を交えた日本海海戦百年目であり、その当日の五月二十七日に催される「宗像大社沖津宮現地大祭」に参加する為に、九州の玄界灘に浮かぶ孤島「沖ノ島」へ向かいました。

 この宗像大社の祭神は天照大神の三人の姫神様の為、総社として宗像市内の辺津宮(へつみや)、フェリーで二十五分の大島に鎮座する中津宮(なかつみや)、そして目的の孤島、沖ノ島にある沖津宮(おきつみや)となるが、末社は全国に六千余社もあり、安芸の宮島にある厳島神社もその一つである。

 夕刻六時からの中津宮の宵宮祭に参加しなければならず、早目に辺津宮に到着し、本殿奥の静寂な森の中にある高宮祭場を訪ねるが、ここが宗像大神ご降臨の地と伝えられ、神籬(ひもろぎ)磐境(いわさか)と云うお祭りの原点を現在に残す古式祭場で、いかにも神秘的な佇まいであった。

 そして近くの近代的な建物である宝物館「神宝館」に入るが、明日、我々が目指す「沖ノ島」から出土した宝物を展示しており、これらは昭和に入り、数回もの遺跡発掘調査により、四世紀頃から数百年に亘る大和朝廷による祭祀の遺物で、現在迄に約十二万点が発見され、その殆んどが国宝か重要文化財に指定されており、『海の正倉院』といわれる所以が理解できる。

 その後、神湊港へ行き、フェリーに乗り込み大島へ渡り、揃って中津宮の宵宮祭に参加する。

 この祭事は、渡航の無事を祈願するもので、その後、翌朝の各人が乗り込む船の名前が発表されるのである。

 年に一度、日本海海戦の開戦日に慰霊の為、全国・万人余の中から神社関係者と一般の参拝者を含めて、二百名のみが参加できるのであって、地元の方も殆んど行った事がなく、更に沖ノ島への上陸心得として古くから婦女子の上陸は厳重な掟により禁止であり、参加できる二百名も必ず素裸になり、海に入り、海水にて禊(みそぎ)をしないと上陸を認められない。

 以前は「不言島」(おいわずさま)とも云われ、この島での出来事や見た事は誰にも話してはならないとも、又、もちろん一木一草一石たりとも持ち去る事は出来ないのである。

 宵宮祭も無事に終わり、一夜参籠の為、旅館に戻り、いよいよ明日にせまった念願の神の島への想いを語りながら床に入った。

 早朝からの仕度を終え、目の前の大島港に向かうが、もう既に小さな漁船や旅客船が並び、我々の到着を待っていた。

 六時の出発予定で玄界灘の約六十キロメートル先の沖ノ島へ二時間余りの船旅である。

 この旅には海上保安庁の巡視船も同行する。

 点呼を受け静まり返った朝靄の中に汽笛が鳴り、同行できない多くの女性達や家族の見送りを受けての緊張の船出である。

 今回我々は運良く小さな旅客船であったが、漁船の場合は救命胴衣を着け、船酔いを覚悟しなければならない。

 やがて、出発した大島の島影も消え、暫らく水平線と全速力の為か吹雪のような飛沫(しぶき)を眺めていると、船内が騒がしくなってくる。



 「沖ノ島だ」
          「神の島だ」

 乗船している参拝者の顔から笑顔が見え、修験者達の法螺貝が響き渡る。

 この沖ノ島の前方には二つの御門柱の大きな岩礁が海面から出ており、この間を総ての船が通過するのであるが、これが全国の神社にある鳥居の原形と云われているものである。

 やがて、ゆっくりと船が港に進み、一人の神官が交代で住む小さな社務所と国旗(日の丸)と石造りの鳥居が見える船着場に到着する。

 この鳥居を潜る迄に全員で海に入って「禊」をするが、五月と云っても玄界灘の海は、やはり厳しい冷たさだった。

 その後、山から涌く神水で体を再度清め、衣服を整え、中腹にある沖津宮へ向かう。

 取材のテレビ局のスタッフや外国人(バルチック艦隊の艦長の孫など)、更にはエジプト研究の第一人者、早稲田大学の吉村作治教授の姿も見える。

 岡山の吉備に多く見られる磐座(いわくら)の巨石に挟まれた沖津宮へ到着すると、一人ずつが拝み、その後、祝詞奏上からの祭典が始まる。

 終了後、正午迄は自由な時間となり、我々は山の頂上を目指そうと太古のままの原始林の中を急な道を登った。

 その道中には、やはり磐座が数多くあり、その岩陰に未だ多くの国宝が眠っているのである。

 私がこの沖ノ島の事を知ったのは、国宝が記されている書物には必ず掲載されており、近年NHK21世紀スペシャル大河にも取り上げられる司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも出てくるからで、その項には・・・。

 「この海域に孤島がある『沖ノ島』と呼ばれていた」から始まり、「その当時、この沖ノ島の住人は神に仕えている神職一人と佐藤市五郎という雑役をする少年の二人だったが、この少年が沖ノ島の頂上に近い大きな木の上に登って眼下に展開する日本海海戦を目撃し、神職は大海戦の砲声の響く中、神殿で懸命に祝詞(のりと)をあげた。その間、砲声が矢継ぎ早に響いた。市五郎は身がしきりに震え、無闇に涙がこぼれて、どうにもならなかった・・・。」と記述にある。

 市五郎が目撃したと云う頂上からの日本海の大パノラマを暫らく楽しみ、船着場に戻ってみると漁師さん達が作ってくれた魚料理が待っており、旅館で頂いた弁当を広げ、神社が用意してくれたビールで直会(なおらい)となる。

 これも行事である。

 やがて正午の離島の時間となり、おそらく二度と、この島に渡れる事がないとの想いと荒れた海の時には大島の沖津宮遥拝所での祭典となるのだが、今日の素晴らしい、この青天に感謝し、来る時とおなじ船に乗り込み、そして参加した全ての船と共に日露艦隊同士が激戦を交わしたという海域まで進み、そこで献花と黙祷を捧げ、神の住む島・沖ノ島を一周して百年前の両国の英霊に別れを告げたのでした。


二度と戦争を起こさせない誓いを胸に秘めて

平成17年5月29日